ひきこもり備忘録

これってこういうことなのかな?と勝手に思って1人で楽しんでいます。

反面教師として読んだ『最後の扉を閉めて』

タイトル:最後の扉を閉めて
原題:Shut a Final Door
著者:トルーマン・カポーティ
訳:川本三郎 新潮文庫「夜の樹」収録

あらすじ:広告業界で働くウォルター。傲慢ながらも傷つきやすい彼は、親しくなった者たちをも傷つけて生きている。



主人公のウォルターは自分本位で周囲を傷つけながら生きています。それもおそらく無自覚に近いのでしょう。周囲を傷つけ、結果的に相手が嫌なことをしてきたのだとして己も傷つき、人間関係の範囲がどんどん狭まってゆく。
タイトルの「扉」はそんなウォルターが心を開ける範囲、「心の扉」という意味なのだと思います。
作中で2度かかってきた電話は、おそらくウォルター自身なのだろうと思います。ウォルターに残った良心、潜在的な客観性から見いだせる自覚のある悪意が警告をしていたのだろう……と思いたい。
ラストはみな悪意を持って接してくるのだとばかりに被害者ぶりますが、全部自業自得で因果応報。
電話は実際鳴っていたのかもしれませんが、ウォルターを怖がらせるような内容では無かったのかもしれません。全く違う内容でも、どんどん心の扉を閉めて疑心暗鬼になっていったウォルターにとっては自分を追い詰める言葉に聞こえるだけ。
ウォルターの他人に開くことのできる心の扉。幾重にもあった心の扉を何かがある度に閉めてゆき、「最後の扉」も閉めてしまったウォルターは、だれにも心を開かなくなる。これからはずっとひとりになる。



ウォルターは「こんな風にはなりたくない」と思うキャラクターではありますが、私も心の扉をたくさん閉めてきた人間です。ウォルターを嗤い、非難することはできますが、彼の気持ちもわからなくはないのです。
全部他人のせいに出来たら、自分の都合よく現実を歪めて見ることができればどんなに楽に生きれるかと思うこともあります。けれどこれらをやって行き着く先はウォルターと同じ末路なのでしょう。


このお話の中では、ウォルターと親しくなれるのは恋人でも友人でも女性ばかりですね。
学生時代では、アーウィングという同性の友人(仲の良い知人程度かもしれないが)はいましたが、それも彼の恋人を寝とったことでだめになる。そういうことをするから!
アーウィング以外にもこの短編の中にはウォルターと同性のキャラクターは出てきますが、すべて相手を利用してやりたいとかなんとか、そういう感情を持ち、そんな関係しか築けない。 やがて親しくなった女性たちにもひどい噂を流したり、貶したりしたためにだめになる。
どうしてウォルターは女性とは一時的にでも仲良くなることができたのか。異性とは肉体関係を持つなど世間体的にも交流しやすい、それに性別の違いから無意識に己(男性)とは別ものだとして認識しているから?それともアーウィングの件で罪悪感から無意識に「同性の友人」を避けていたから?
この件は他の方の見解を知りたいです。私はひとまずこのどちらも推しておきます。